『シチズンフォー スノーデンの暴露』がいい感じに怖くてよかった【ネタバレ無し】
スノーデンさんの映画を観ました。
邦題がクソダサいですが、感想ポイントは以下の3つです。
1. 実録スパイものとしての緊張感が最高
2. スノーデンがカッコイイ(顔が)
3. 権力による「監視」に対して、僕らはどう考えるべき?
「けっこう面白かったで」と友人に電話したら、「え?地底人を信じている人?」と言われて、何言ってんのこいつ?と思ったら、マジでしたね。
英語が読めないので、本当に本人が言ってることなのかはよくわかんないですけど。
1. 実録スパイものとしての緊張感が最高
スノーデンさんをざっくり説明すると、アメリカのCIA(中央情報局)とNSA(国家安全保障局)の元職員、というか技術屋さんだった人で、
Collect it all(全てを掌握する)の旗印のもと、個人情報(通話内容・クレジットカードの履歴・地下鉄を使った履歴*1とかとか)国家ぐるみの盗聴・ハッキング・情報収集・監視が行われているんですよ、というのを告発した人です。
僕もニュースになってんなーとは思いましたけど、「どこまでこれが大したことなのか」は全然わかってませんでして。
で、この映画、そんなスノーデンの告発に関するインタビュー中心のつまんないドキュメンタリーとかじゃないんですよ。
スノーデンが報道関係者に接触し、説明している「告発」の瞬間が全部カメラに撮られてるドキュメンタリーなんですよ。
エドワード・スノーデン、この映画の監督であるローラ・ポイトラス、それから英紙ガーディアンのグレン・グリーンウォード記者*2は、香港のホテルの一室で接触しています。
っていうか、ホテルの部屋で3人〜4人で話しあってるだけなんですよ、この映画、ほとんど。
ただ話している内容は、世界で一番危険な内容です。
国家的犯罪行為の暴露。
告発する内容1個1個が、世界的な大ニュースになるであろう内容だし、記者もアメリカの監視リストに載ることはもちろん、スノーデン自身もひょっとしたら、いつ「秘匿された暴力行為」の餌食になるかわからない。
そして賞賛されるべき、世界でたった一人の、人生をかけた挑戦、問いかけ。こんなわかりやすく「人生が終わる瞬間」が観れるドキュメンタリーも逆にないかもしれません。
そんな時に、そんな彼らの行く末を暗示するかのように、まるで世界で見えていないものはない観察者の存在を示唆するかのようなある象徴的な出来事が起こります。このシーンが良かった・・・。
落ち合う時の暗号じみたやり取りとか*3、あとローラとスノーデンはコマンドラインで動かす暗号ツールみたいなのでやり取りするんですけど、これもわくわくしました。
2. スノーデンがカッコイイ(顔が)
あと単純にスノーデンさん(当時28とかそれくらい)が普通にカッコイイんで、画面が見飽きないんですよね。
twitterもフォローしてるのはただ一つのアカウント。NSA(アメリカ国家安全保障局)のみ。
かっけ〜。
3. 権力による「監視」に対して、僕らはどう考えるべき?
勇気ある一人の国民の告発によって明らかになったのは、アメリカ権力が全米の一般市民を監視していること、そしてそれがアメリカだけの話ではなく、世界的に諜報機関が連携して情報のやり取りを行なっていることでした。
具体的には、携帯電話・固定電話問わず、通話の内容は全て傍受・記録されていて、また、個人情報を扱うシステム会社、インターネットサービス、SNSは、国家のためにプログラムのバックドアを作らされており、そこから情報を抜いている。そういった莫大な情報は、”メタデータ”と呼ばれる個人を紐付けるデータ構造を解析できるプログラムにより、簡単に、任意の個人について監視することが可能。そういう内容でした。
でも、個人的にはぶっちゃけ、だから何なの?と思ってしまわなくはないです。
さすがに1984みたいな相互監視社会とかはイヤだけど、「政府」みたいな大きなものが、僕のクレジットカードの履歴とか、DMMの購入履歴を覗いてたところで、僕の個人の生活には何も影響ないし、
職員に見られるとかにしても、俺みたいなのは他に何万、何百万もいるんだから、個人に嫌がらせしてくる確率なんてすごい低くない? って思ってしまう。僕がもし国家に反逆するスパーハカーなりアジテーターとかでなければ、関係なくね?と。
しかもアメリカ政府が、この暴露を受けて、コメントしているのは、あくまで「これはテロ対策の一環なんだ」という姿勢なんですね。
いや、それでテロとか防げるのなら、万々歳じゃない。
違う、そうじゃないんだ、という見方
スノーデンしかり、なぜグレン記者等はここまで身の危険や己の進退をかけてこの事実を告発するのか。
劇中では様々な人が公聴会?集会?とかで意見を述べるシーンが出てくるのですが、
すごく端的にいうと、国家による監視を許容することは、個人の権利の放棄だ、という考え方なんですね。
本来、情報社会じゃなければ、誰と誰が何を話そうが、どこで集会しようが、どんなやり取りをしようが、「自由」だろうと。そしてその自由は個人の権利だろうと。
それが絶対王政じゃない、独裁政権じゃない、近代的な民主主義国家の国民のあるべき姿だと。
情報社会によって、そういう個と全体のパワーバランスが明らかに偏ってしまう。もし全体が間違った時に、個がそれを矯正することができなくなってしまう。そういった危機感をこういったサイファーパンク - Wikipedia的なコミュニティにいる人たちは持っている。
月並みな言葉ですが、「平和ボケ」した僕には思いつかない発想だったので、なるほどね、と思ったし、なんか遠隔操作事件ごときでゴテゴテ(後手後手)している日本の警察とかを見ていると、こういう危機感は日本では流行らなそう、とか思いました。
まあ、そんなわけで、面白いですよ〜。